紫陽花から見える… 中山景甫
「自然」とか「宇宙」と言うと、あまりに大きく広すぎてなにやら解らなくなる。
つかみどころがないので、輪郭がぼやけてしまうのだろう。ぼやけているからつかみどころがないのか、いずれにしろ何事も大きすぎるものは解りにくい。
仕方がないから頭で理解しようとする。
「自然とは……である」「宇宙とは……である」と、根拠もなく「……」のところを強引に決めつける。
ところがそうした「……」は、たいがい本質や実感から遠く離れていて、旧来の常識やもしくは自分の考えに都合よく合わせた、言ってみれば常識に頼った自己弁護である。頭の中で考えたものは、地に足が届かない。
そうはいっても、いけばなをやっておれば「自然」について当然考えるし、流儀の格花も「宇宙」にふれての理論が背景にある。「自然」とか「宇宙」とかは普段の生活の身近なところにあるのだろう。
例えば我が家の庭に咲いている紫陽花の花びらに、その彩りに。
七色の花と言われるが、紫陽花は一日のうちでも花の色が変わる。朝の曇り空の下では沈んで見えたのが、午後からの陽射しで明るい地中海の青に劇的に変化をする。
その瞬間を見たときに、私は「あっ、これが自然だよ」と感じる。
《著書「花のいろ鋏のおと」(2012年発行)より》